◆ 診療所ライブラリー 148 ◆


中井久夫私が学んだ医学部の精神科には中井久夫という先生がいました。
日本の精神医療の分野を切り開き、究極の知性とも言われ、多くの人々を魅了している人物です。
その先生の講義を、目を爛々と輝かせながら熱心に聴く同級生たち。
が、精神科領域にあまり興味のなかった私には、話が耳の右から左に抜けていくだけの時間を過ごしていました。
後から中井先生の凄さを知るにつれ、何てもったいないことをしていたのかと後悔しています。


そんな私にも、中井先生の言葉で記憶に残っているものが2つあります。
まず一つ目が

芍薬は女性には喜ばれますな

ポリクリという名の学生臨床実習でのことです。
患者さんの診察をしながら、横に座らせた中国人留学生に漢方薬のアドバイスを受けていたのです。
女性の患者さんが診察室から退いた後に、我々学生の方に顔を向けて発したのがこの言葉でした。

調べてみると、更年期障害などで女性に処方する機会の多い漢方薬のほとんどに芍薬という成分が含まれているではありませんか。
漢方薬に興味を持つきっかけの一つとなったこの短いフレーズは、今でも私の頭に鮮明に刻まれています。
既存の薬は精神科領域の病を根本的に治すものではないと知っていた先生が、人間的に配慮する治療の一環として漢方薬の活用を考えていたのだと思いますが、その際に見せた若い留学生からさえ謙虚に学ぼうとする姿勢にも感心した場面でした。


もう一は、ポリクリの最中に先生ご自身がカルテを書きながら発した言葉

医者の文字は破壊されますな

ガリ版に刻むような文字も書けていた私は、先輩方のカルテの記載を追うのに四苦八苦していました。
しかし、多忙を極める臨床現場に身を置くと、自分自身の字も時間が経つにつれ自分でも読めないような状態に変化してきました。
未だに紙カルテなのですが、自分の手書き文字を見るにつけ思い出す言葉です。
医師の筆遣いの劣化を、見事に普遍的に表しているのではないでしょうか。

的を射た言葉を選んで短いフレーズに凝縮する達人である先生の講義の中には、もっともっと今の臨床に活きる言葉がたくさん詰まっていたはずで、それを真面目に聴いていなかった自分を悔いる次第です。


今回紹介する「中井久夫 精神科医のことばと作法」は、様々な人が先生について語り合い論考したムック。
本人のエッセイなども掲載されており、多彩な内容で先生の考えや業績が理解できるようになっています。
掲載されている鼎談を通して、中井先生が思考や概念に色や匂いを感じ取っていたと知りました。
このゴールデンウィークに訪れたハンガリーを代表する天才ピアニスト、リスト・フェレンツ ( フランツ・リスト ) も音を色彩で捉える「共感覚」を持っていたとされます。
ハンガリー訪問を機に興味を持ち始めたこの共感覚を、中井先生も持ち合わせていたのなら・・。
天才の感覚に触れる機会を十分に活用できなかったことを返す返すも口惜しく思う今日この頃です。
( 私、悔やんでばかりですね )

中井先生のことを知らない方も、この本を是非手に取って読んでみて下さい。
新しい覚醒の糧となるはずです。


当院では、医療・介護・健康などに関する書籍を取り揃えて貸し出しも行なっています。
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