野口内科 BLOG

  鹿児島市武岡に開業して41年の野口内科です。
  医療・健康に関する情報はもちろん、近隣の話題、音楽・本のことなどを綴ってまいります。

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阪神淡路大震災

1995年1月17日、午前5時46分に起こったことを話しましょう。

♦♦♦♦♦

震災当時、私が住んでいたのは神戸市の須磨の山手の方。
六甲山縦走大会ではコースの一部になっている場所にありました。


震災ドスンという大きな衝撃に眠りから覚めた思ったら、ベッドの上でいきなり水平に激しく体が揺さぶられ始めました。
ガチャガチャと大きな音を立てながら食器が次々に割れる音、本棚から本がバタバタと落ちていく音が聞こえてきます。
ベッドから振り落とされないように、必死でシーツを鷲掴みにするのが精いっぱいで、何もすることができません。
たった15秒の揺れでしたが、どれだけ長く感じたことか。
揺れが落ち着いた後、まるで大型トラックが何台も猛スピードで通り過ぎていくようなゴォーッという低い轟音が六甲山系の山を伝って東の方へ遠ざかっていくのが聞こえました。
山は鳴るのですね。

停電で、室内はおろか外の街灯も消えて真っ暗な闇が広がっています。
食器が割れるなんてとんでもない地震だ、震源は一体どこなんだろう‥。
真っ先に思ったのはこんなことでした。
怖さを感じる間はなく、ただ驚きしかありませんでした。

テレビが使えない中、地震の情報を得ようと真っ先に思いついたのが実家への電話。
母はもう起きている時間だからです。
電話機のある部屋まで、暗闇の中を床に散乱した食器や本などに足を取られながら進みますが、何回も余震が襲います。
途中で普段から用意している懐中電灯を手にしますが、電池が切れかかっていて淡い光を放つのがやっとの状態です。
ようやく受話器を握って連絡。
「今、大きな地震があったんだけど、震源は? 神戸の震度は?」
母に問いかけました。
母が慌ただしくつけたテレビから、アナウンサーの声が漏れ聞こえてきます。
京都や大阪の震度は伝わってきました。
「神戸は?」と母に聞いても情報が出ていないとの返事。
しばらくして「震度6」と母の叫ぶ声が響きました。( 震度7は、その後の現地調査等で結論づけられたものです )
電話をかけている間にも余震が繰返し室内を揺さぶります。
いつになったら揺れが収まるのだろうという不安感と、寒さから体がガタガタと震え始めました。

一旦電話を切り、次は実家に戻っていた妻への連絡です。
妻の実家の電話番号は電話機のメモリーの中。
しかし、停電でメモリーが使えません。
新婚8ヶ月目で、その電話番号を記憶していませんでした。
もう一度実家の母に電話して番号を確認し、何とか連絡が取れました。
一番聞き出したかったのがラジオの在り処。
停電の中、情報を得るのにはラジオが一番です。
しばらくの会話の後、トイレに行きたくなって電話を置こうとした時に「繋がらなくなるから切るな」と妻から言われたものの、いつまでも受話器のそばに座っているわけにもいきませんでした。
実際、その後は電話が簡単に繋がらない状況になってしまいました。

まだ明けきらない外の様子を窓越しに見ると、海に近い地域で炎がいくつか見えるではありませんか。
早く消火ができればいいのに、と眺めていましたが、その炎が昼を過ぎても衰えることなく続くとは、その時全く想像することができませんでした。

夜が明けて、室内の状況が分かってきました。
散乱した食器や本などを片づけようとしても、大きな妨げとなったのが、ホッとする余裕を与えることのない断続的に続く余震です。
本震よりも、この終わりの見えない余震の方が怖くてたまりませんでしたし、余震でまた散らかってしまうのではないかと考えると、片付ける意欲は削がれていきます。

幸運にも、午前8時半頃に停電が一時的に回復しました。
その時に急いでつけたテレビに映し出されていたのは、倒壊した阪神高速の高架やあちこちから上がる火事の炎と黒々とした煙‥。
自宅の被害とは比べ物にならない大惨事が、目と鼻の先で広がっている現実に驚愕したのでした。

♦♦♦♦♦

25年が経過しましたが、地震発生直後の記憶は褪せていません。
この後も様々なエピソードが続きますが、今回は最初の3時間ほどの部分だけを切り取って書いてみました。
震源地に近いものの、花崗岩でできた固い地盤の上に住んでいたのが幸いし、激しい揺れにも関わらず被害も大きなものではありませんでした。


さて、この数時間の行動の中に、災害に対する不備がいくつか浮かび上がりますが、わかりますでしょうか。

1. 床に割れた食器などが散乱している中、裸足で歩いたこと。
  ( 足で探りを入れながら進みましたが、よく怪我をしなかったものです。)

2. 懐中電灯は家にあったものの、電池が切れかかっていたこと。

3. 固定電話のメモリーは停電になると使用不能になると知らなかったこと。

4. ラジオの収納場所を知らなかったこと。


当時、携帯電話の普及はほとんど進んでおらず、家具の転倒防止を防ぐグッズも一般的でなかったことなどを差し引いても、様々な問題点がありました。


25年の節目で様々な報道がなされると思いますが、他人事と思わず、今一度災害に対する備えを確認する機会として下さい。

3月11日は東日本大震災から8年目となり、テレビや新聞などでは様々な特集が組まれました。
私が阪神淡路大震災を経験していることは、既にこのブログでも繰返し取り上げています。
阪神淡路大震災では火災が、東日本大震災では津波が、被害に更なる拍車をかけましたけど、同じ地震が原因になっていても個々で異なる問題が生じます。


map鹿児島では桜島の大噴火の可能性があります。
3月9日には鹿児島救急医学会等が中心となった座談会が行なわれ、大規模な噴火の際の入院患者の安全確保についての議論が行なわれたようです。

噴火時の直下型地震や津波なども想定されていますが、一番の問題はやはり火山灰でしょう。
火山灰はその時の風向きによっても堆積量が異なって来るものの、一番の人口密集地である鹿児島市は灰に埋もれてしまうのは必至。
大正噴火クラスの規模の爆発があり風向きが鹿児島市内方面だと、当診療所のある武岡地区では約1mも火山灰が降り積もる予測がなされています。
鹿児島の方ならよくご存じでしょうが、火山灰が水分を含むとセメントのように固まってしまいます。
50cm積もったまま水を含むと家屋が倒壊してしまう可能性もあるようですね。

通常の災害などでは比較的早期から行われるであろう救助活動や支援物資の供給が、降灰に阻まれてかなり遅延してしまうことは間違いありません。
3日は備えておくべきと言われている食糧や燃料も十分とは言えないでしょう。
4月になれば熊本地震の話が盛んになってくると思いますが、こういう機会を捉えてでもいいので、大噴火を見越した備えを真剣に考えてみて下さい。

早いもので、明日1月17日で阪神淡路大震災から24年目を迎えます。


昨日は、JR六甲道駅の復旧工事を描いたドラマ「BRIDGE」が放送されました。
24年って中途半端だなと思っていたら、関西テレビ開局60周年を記念して作られたものだったようですが、なかなかの力作でした。

横倒しになった阪神高速や線路がぐにゃぐにゃに曲がった阪神電車の映像が強烈で、当時の資料として今でもよく利用されています。
JRも同様に六甲道駅を中心に甚大な被害を受け、東海道本線の住吉駅と灘駅の間の不通が長らく続きました。
六甲道駅周辺には私の出身校である神戸大学の学生が多く下宿しており、学生や教職員44名が犠牲になっています。

その六甲道駅を特殊な工法でわずか74日で復旧させた工事を軸に、震災に遭った人達の心情も織り交ぜ、当時の映像もふんだんに盛り込んだ内容のドラマに、震災当時の記憶を重ね、目頭を熱くしながら見入ってしまいました。
片瀬那奈が歌った劇中歌もいい曲でした。

4月1日に東海道本線と山陽新幹線の不通区間が全線開通したのはしっかり覚えています。
なぜなら、その日に鹿児島で友人の結婚式があったからです。
明石の病院での当直明け、姫路から博多へ新幹線で向かい、福岡からは飛行機で飛び、午後からの披露宴に何とか間に合いました。
不通となっていた山陽新幹線の新大阪と姫路の間は、4月1日から営業再開予定だとする報道がなされていたにも関わらず、JRは確定したものではなく当日にならないとわからない、として新神戸駅からのチケットを頑なに売ってくれませんでした。
そのため、確実に鹿児島に戻れる手段として姫路からの新幹線乗車となった次第。
そういう逸話、震災による生活への影響の一場面として残しておいてもいいかなと、今回ブログに書いてみました。


防災グッズ先日は、鹿児島でも震度4を記録した地震がありました。
プレート地震に特徴的な、ゆるやかなグルグルと回るような揺れでした。
事あるごとに口を酸っぱくして言っていますけど、備えましょう。
三日は自力で過ごせるだけの食糧やグッズは揃えておきましょう。

地震6月18日の午前7時58分、大阪府北部を震源とする最大震度6弱の地震がありました。
このところ日本各地で地震が多いですよね。
5月25日は長野県北部で震度5強、6月17日には群馬県で震度5弱、また今月上旬から房総半島沖を震源とする地震も相次いでいます。
私の住む鹿児島でも、6月12日4時54分に宮崎県沖を震源とする最大震度4 ( 鹿児島市は震度3 ) の地震があり、揺れで目覚めたかどうかがその日の話題の中心になったばかりでした。

私は神戸で阪神淡路大震災を経験していることもあって、当ブログでは地震に関係するコラムもいくつか書いていますが、今回は地震の発生時刻について考えてみたいと思います。

今回の大阪の地震は、ちょうど朝の通勤・通学の時間帯を襲った格好になります。
登校中の小学生が倒れてきた学校のブロック塀の下敷きになるなどして4人の方が犠牲になりました。
また、止まった列車から降りて線路を歩いて駅まで歩く人々の様子や、バスやタクシー乗り場の長い行列などの映像が繰返しニュースで放映されていました。

阪神淡路大震災以降の主だった地震の発生時刻を見てみましょう。
地震の発生時間
阪神淡路大震災や熊本地震は、多くの方が自宅にいる夜間に起きており、建物の崩壊による圧死の方が多かったのが特徴の一つです。
福岡県西方沖地震は、昼前かつ日曜日で、今回の大阪の地震と同様に倒れた壁による犠牲者が出ています。
東日本大震災は、午後のちょうど幼稚園児の降園の時間帯にあたるかと思います。
新潟県中越地震は、帰宅の時間帯に相当します。

地震は、震源がプレートなのか活断層なのか、都市部か山間部か、など様々な要因で我々の生活への影響もだいぶ違います。
そして、季節や発生時刻によってもかなり様相を異にします。
今回の大阪北部を震源とする地震は、多くの人が移動する時間帯であったため、既に述べたような事態が発生したことは説明するまでもありません。
皆が目的に向かって動いており、家族や知り合いの行動もバラバラ。
安否確認も一苦労です。

皆さんにお伝えしたいのは、こういう災害時に他人事と考えずに自分に当てはめて捉えていただきたいということです。
今回は、週明けの通勤時間帯でどのような事態が発生したか、自分だったらどうなるのか、そしてどうするのか。
そして、家族とはどうやって連絡を取り合うのか。
報道などからしっかり学習して、防災対策として自分のものとして欲しいのです。
なぜそのようなことを言うかというと、これだけ多くの震災が起きているのに、非常食や防災グッズの準備などの対策を全くとっていない人があまりにも多いからです。
起きてからでは遅いのです。
災害の度に知見は蓄積されてきていますので、危機感を持たず無策でいることだけは避けて下さい。

これまでも、当ブログで繰り返し述べていますので、以下のコラムも参考にしてください。

●  阪神淡路大震災から15年
●  阪神淡路大震災から明日で20年
●  明日、阪神淡路大震災から21年


2013年4月13日に淡路島地震が起きた地震は、阪神淡路大震災の原因となった六甲・淡路島断層帯の南端の余震域で起きたもので、その関連性が議論されたこともありました。
今回の大阪北部を震源とする地震との関連はどうなのでしょうね。

1月17日、阪神淡路大震災から22年目を迎えました。
何かと慌ただしい年末年始だったので、震災を経験した私でさえ、直前までそのメモリアルデーが近いことをすっかり忘れていました。
そのくらい長い時間が経過したのだと思いますが、目に焼き付いた光景は褪せることなく蘇るのもまた事実です。

わ昨年は4月14日と16日に熊本地震があり、鹿児島に住む我々もその揺れを体感しました。
あまりに大きな自然の力を目の前にして、自分は一体何ができるのだろうかと無力感にひしがれます。
でも、一人一人の力は小さくとも、それが合わさって大きく事態は動きます。
阪神淡路大震災の時、私はがれきを片づけたわけでもなくライフラインの復旧に携わったわけでもありません。
医師として医療を要する人を全て診たわけではありません。
その中のほんの一握りの方々に可能な限り接しただけです。
皆がそれぞれの役割を持って動かした小さな歯車が噛み合って、復興へ向けての大きな力になったのです。
人と人のつながりが固いほど、そのパワーも無駄なく強力なものになると思います。

震災で負った心の傷を癒すのにも、そういう絆が大切だと感じます。
その輪の中からこぼれ落ちることなく皆が日常を平穏に過ごせるようにするのは、阪神淡路大震災以降、熊本地震に至っても大きな課題となっています。
過去の災害を教訓にしながら、知恵を出し合っていく努力を弛ませるてはいけません。

そういうことを今回の地元テレビ局の取材で言いたかったのですが、咄嗟にうまく表現できなかったので、改めて書かせていただきました。

 ◆ 診療所ライブラリー 129 ◆


どうして今年もいろいろな災害がありました。
熊本地震があり、東北や北海道は台風で大きな被害に見舞われ、糸魚川では大火が・・。
誰もが好き好んで被災者になりたいわけではありません。
猛威に大切なものを奪われる辛い体験は一瞬に留まらず、様々な課題の克服にはかなりの時間を要します。

東日本大震災からは5年が経ちますが、まだまだ解決しなければならないことが山ほどあります。
ドクター小鷹、どうして南相馬に行ったんですか ?」は、大学を辞めて被災地の病院に飛び込んだ神経内科医と精神科医が往復書簡の形式でのやり取りを書籍化したもの。
二人のやり取りからは様々な問題点が浮き彫りになってきます。
悩みつつも類い稀なる行動力で難問を少しずつ解決していく神経内科医の姿には感銘を受けます。
被災地支援に大切なのは他人との協調であり、変化していく状況やニーズに対応するためにも人間関係の構築が大事だと繰返し述べています。

阪神淡路大震災では、復興住宅の割り振りにおいて地域のコミュニティを無視して低所得者や高齢者を優先して入居させました。
その結果、人間関係が希薄でお互いを支え合うことができない状況を生みました。
外見上、震災の傷跡が見えないように街がきれいに整備されても、心の傷を癒すわけではありません。
人と人の接点の数をできるだけ多く持つことの大切さを改めて考えさせられる、そんな一冊でした。


熊本地震の前震から20日ほどが経ちました。
阪神淡路大震災を教訓として、大規模災害時の対応は進歩を遂げています。
しかし、まだまだ不十分な点もあるように思います。
そのうちの2点について考えます。

今回は、震度7に二度襲われた益城町を始めとして熊本城や南阿蘇村など、絵になる場所に報道が集中しています。
救援物資の供給やボランティアなど支援の偏在が問題となっていますが、この報道の偏りに因るところが大きいと思います。
先日、大分県竹田市の方と話す機会がありました。
自宅の離れの物置が半壊状態になったり食料品などが一時不足したりがあったそうですが、全く見向きもされない状態に少々憤りぎみでした。
阪神淡路大震災の時も、被災地は広いエリアに及ぶのに長田区にばかり報道が集中していた気がします。

トイレまた、避難所のあり方もどうでしょう。
地震による災害では多数の方が損壊した自宅に簡単には戻れず、長期にわたる避難生活を強いられます。
プライバシーへの配慮もなく空調設備もない硬い床の上で身を寄せあって過ごすのは、かなりのストレスとなるのはわかりきったこと。
そして仮設のトイレ。
私も阪神淡路大震災の経験しましたが、びっくりしますよ。
排泄物とほぼ同量の紙が便器から溢れるように山盛りになっていたりします。
臭いもひどく、とても用を足す気にはなれません。
水分摂取が十分でない女性が多いのも、ノロウイルス集団感染が出たのも、劣悪なトイレ環境に起因するのではないでしょうか。

今後も起こるであろう大規模災害に向けて、このような課題への対策を考えておくべきです。
被災者をサポートする立場の人たちもまた被災者です。
起きてからの対応が後手後手に回ってしまうことは極力避けたいものです。

だんそー4月14日から続く熊本を中心とした一連の地震で、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。
余震の回数が半端ではなく震源域が今後も広がっていく予想もあるため、落ち着かないでしょうし、復旧の妨げとなる懸念もありますね。

九州の南部に位置する鹿児島でも物流がやや滞りがちで、店に行くとミネラルウォーターやパンが品薄になる一方で、地元新聞によると普段はほとんど売れないヘルメットが1日に100個も売れたとか。

阪神淡路大震災を経験した私は、このブログでも災害について触れることが何回かありました。
伝えるべきことを伝えても、それを備えにつなげてくれる人が多くないのは常に残念に思っていました。
大きな災害が身近で起こって慌てて準備に走り、欲しい物が入手しづらい状況を目の当たりにして青ざめても遅いのです。

一人暮らしを始めた時の懐中電灯とラジカセとマッチとろうそくが手元に置いた最初の防災グッズ。
94年の琵琶湖の渇水に伴う取水制限時にポリタンクを買ったのですが、そこまでする必要はないと周囲に嘲笑されたものでした。
でも、これが翌年に起きた阪神淡路大震災の時に大助かりだったのです。
その後、事あるごとに様々なグッズを買い増しており、昨年はヘルメットを購入しました。( → 東日本大震災から4年 )
家族が最低3日間過ごせる分の水や食料も常に維持しているのですが、今回の熊本地震の様子を見ていると3日では不十分のような気がしてきました。
防災への備えを更に充実させたいと思っています。

被災された人たちに何らかの手を差し伸べることは大事です。
それと同じくらい、自分たちはどう備えるべきなのかを改めて考え直す機会にしていくことも大事なのです。

防災明日、阪神淡路大震災から21年目を迎えます。
先日、成人式を迎えたのはもう震災を知らない世代になってしまいました。

昨年、震災20年にあたり地元テレビ局の取材を受けました。
その際に、防災グッズを常に枕元に置いているという話がクローズアップ。
テレビを見たよ、と声を掛けてくれる人が案外多かったのですが、話を聞いてみると皆さんそういう備えをしていないことに私自身が驚きました。
東日本大震災があっても、桜島の噴火警戒レベルが上がっても、鬼怒川が氾濫しても、危機感を持たないようなのです。
我が家族はその都度話し合って、災害時の連絡手段や集合場所の確認、防災グッズの確認や追加などを行います。

震災時に住んでいた場所は水道がしばらく使えました。
それを知って水をもらいに来た知り合いがいます。
てっきり18リットルのポリタンクを持ってくるのかと思っていたら、やかんと鍋を数個…。
改めて備えの重要性を強調しておきたいと思います。

 ◆ 診療所ライブラリー 107 ◆


震災医療震災医療 現場からの報告と提言」。
私の大先輩が病院長として直面した災害医療現場の記録を、阪神淡路大震災から20年を迎えるにあたって本にまとめました。
様々な場面でトップとして次々に決断を下しながら、未曾有の事態を乗り越えていく様子が伝わります。

神戸の御影の山手にあるレトロな佇まいで普段はのんびりした印象の病院が、震災時には最も多くの患者を受け入れ、ヘリコプターによる患者の搬送数も突出して多かったことはこの本を読むまで全く知りませんでした。
今でこそ当たり前の仕組みとなったドクターヘリですが、阪神淡路大震災が教訓となって誕生したこと、皆さんご存知でしたか ?
ヘリコプターで震災地域外に多くの患者を運ぼうというのは、この病院の発想だったのです。

災害マニュアルについても言及しています。
マニュアルは大まかなものでよく、細部については指揮官がその時の災害の状況などを把握してもてる力をフル稼働する方法を考えることが大事だと説いています。
このことは私が先月ブログに書いた考えと軌を一にするものですね。( → 阪神淡路大震災から明日で20年 )

また、お風呂の重要性も。
何日も働き詰めのスタッフが入浴できたことで再度活気が出てきたことに触れています。
風呂に長時間は入れないのは本当に苦痛なことで、テレビやラジオが伝える銭湯の営業状況などは、被災者に有難がられたものでした。

最後にまとめられた災害医療への提言は、最も過酷な現場を経験したからこその重みがあります。

  → 震災医療 現場からの報告と提言

地震明日で阪神淡路大震災から20年の区切りの日を迎えます。
わずか15秒の揺れでしたが、私は今でもその時を鮮明に覚えています。
わずか15秒の揺れでしたが、20年経った今でも傷を癒し切れない人達が大勢います。

振り返るとあの震災は多くの教訓を残しました。
DMAT ( 災害派遣医療チーム ) や災害伝言ダイヤルが作られるきっかけになったはあの震災です。
PTSDに対する心のケアの必要性が認識されるようになったのも、トリアージや災害救助犬の重要性が認知されるようになったのも、危機管理や黄金の72時間という言葉が広まったのも、あの震災がきっかけです。
教訓から学んだことを活かして今では当たり前に生きているものが、ここに挙げたこと以外にも数多くあります。

阪神淡路大震災以降にも多くの大災害や大事故が続き、その都度知見は蓄積されてきました。
しかし、災害が全く同じパターンで起こることはありません。
いざ災害に遭遇した時に、その知見をなぞっているだけではだめで、応用して賢く振る舞う必要も出てきます。
過去の経験が無駄だということではありません。
経験は強みです。
20年経って震災を知らない世代が増えてきました。
経験した者がしっかりと語り継ぎ、知らない世代がそれを学び、後々の世代において何が起こっても被害が最小限で済むように。
そう願っています。

≪ 過去記事ウォッチング 13 ≫


ムスカリ明日、1月17日で阪神淡路大震災から19年となります。
早いものです。
知らない世代も増えてきているので、語り継いでいくことも大切かな、と思う今日この頃です。

さて、このところ「ジェネリック医薬品を考える」や「風邪薬についての考察」などのシリーズの記事へのアクセスが多い中、東日本大震災が起きて間もない頃に書いた記事にアクセスが増えてきています。
理由はよくわかりません。
それは、「ムスカリの花言葉に込めて」。
月に2回書いている「薬の説明書のイラスト」シリーズの一つなのですが、ムスカリの花言葉をつなぎ合わせて被災者への応援メッセージを作ったものです。
その中で「時間はかかりますが、希望の光は少しずつ皆さんを照らし始めます」なんて書いたのですが、遅々として進まない復興。
日本の行政はどうしてスピード感に欠けるのでしょうか。

桜島明日で阪神淡路大震災から18年が経ちます。
また、12日は桜島の大正噴火からちょうど100年目であり、その前日に大規模な総合防災訓練が行なわれました。

阪神淡路大震災は多くの犠牲者や甚大な被害を出したにも関わらず、その年の十大ニュースのトップに地下鉄サリン事件を挙げる人が多かったのには残念な思いでいました。
でも2011年の東日本大震災は人々の認識を変える大きな契機になったようで、先の桜島の訓練も真剣味があったようです。

普段から災害に対する心構えが大切であることは言うまでもありません。
疾患も同じ。
普段の生活習慣や予防接種などで防げるものはいくらでもあります。
後悔することのないよう、やるべきことはしっかりやりましょう。

AED9月9日は救急の日。
それに合わせて鹿児島市と鹿児島市医師会は毎年救急医療市民講座を開いています。
今年は特別講演の後に救命救急士による心肺蘇生法の
体験実習が行われます。
いわゆる心臓マッサージだけでなく、自動体外式除細動器 ( AED ) の使用法も勉強できます。

阪神大震災を経験した神戸市では市民救命士の認定を受ける人が2割以上いるとか。( → 阪神淡路大震災から15年 )
鹿児島でも多くの方が救命のノウハウを身に付けていただきたいと願っています。

今年の救急医療市民講座は
 □ とき  9月2日 (日) 午後2時から ( 9日ではありません )
 □ ところ 鹿児島県医師会館4階大ホール
入場は無料です。

 

 ● 薬の説明書のイラスト 133 ● 


今回の薬の説明書のイラストに選んだのはビスケット。
2月28日はビスケットの日なんだそうで、これは江戸時代の蘭学者で医師でもあった柴田方庵が保存食としてビスケットの製法をオランダ人から学んだことにちなんでいるようです。

そういえば、皆さんご存知のビスコの保存缶の売れ行きが好調だとか。
これは東日本大震災と無関係ではないでしょう。
私は阪神淡路大震災を経験しましたが、時間が経つと防災に対する意識が薄れてきます。
何が起こっても大丈夫なように最低限の備えは心がけておきましょうね。


 ビスケット

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