1995年1月17日、午前5時46分に起こったことを話しましょう。

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震災当時、私が住んでいたのは神戸市の須磨の山手の方。
六甲山縦走大会ではコースの一部になっている場所にありました。


震災ドスンという大きな衝撃に眠りから覚めた思ったら、ベッドの上でいきなり水平に激しく体が揺さぶられ始めました。
ガチャガチャと大きな音を立てながら食器が次々に割れる音、本棚から本がバタバタと落ちていく音が聞こえてきます。
ベッドから振り落とされないように、必死でシーツを鷲掴みにするのが精いっぱいで、何もすることができません。
たった15秒の揺れでしたが、どれだけ長く感じたことか。
揺れが落ち着いた後、まるで大型トラックが何台も猛スピードで通り過ぎていくようなゴォーッという低い轟音が六甲山系の山を伝って東の方へ遠ざかっていくのが聞こえました。
山は鳴るのですね。

停電で、室内はおろか外の街灯も消えて真っ暗な闇が広がっています。
食器が割れるなんてとんでもない地震だ、震源は一体どこなんだろう‥。
真っ先に思ったのはこんなことでした。
怖さを感じる間はなく、ただ驚きしかありませんでした。

テレビが使えない中、地震の情報を得ようと真っ先に思いついたのが実家への電話。
母はもう起きている時間だからです。
電話機のある部屋まで、暗闇の中を床に散乱した食器や本などに足を取られながら進みますが、何回も余震が襲います。
途中で普段から用意している懐中電灯を手にしますが、電池が切れかかっていて淡い光を放つのがやっとの状態です。
ようやく受話器を握って連絡。
「今、大きな地震があったんだけど、震源は? 神戸の震度は?」
母に問いかけました。
母が慌ただしくつけたテレビから、アナウンサーの声が漏れ聞こえてきます。
京都や大阪の震度は伝わってきました。
「神戸は?」と母に聞いても情報が出ていないとの返事。
しばらくして「震度6」と母の叫ぶ声が響きました。( 震度7は、その後の現地調査等で結論づけられたものです )
電話をかけている間にも余震が繰返し室内を揺さぶります。
いつになったら揺れが収まるのだろうという不安感と、寒さから体がガタガタと震え始めました。

一旦電話を切り、次は実家に戻っていた妻への連絡です。
妻の実家の電話番号は電話機のメモリーの中。
しかし、停電でメモリーが使えません。
新婚8ヶ月目で、その電話番号を記憶していませんでした。
もう一度実家の母に電話して番号を確認し、何とか連絡が取れました。
一番聞き出したかったのがラジオの在り処。
停電の中、情報を得るのにはラジオが一番です。
しばらくの会話の後、トイレに行きたくなって電話を置こうとした時に「繋がらなくなるから切るな」と妻から言われたものの、いつまでも受話器のそばに座っているわけにもいきませんでした。
実際、その後は電話が簡単に繋がらない状況になってしまいました。

まだ明けきらない外の様子を窓越しに見ると、海に近い地域で炎がいくつか見えるではありませんか。
早く消火ができればいいのに、と眺めていましたが、その炎が昼を過ぎても衰えることなく続くとは、その時全く想像することができませんでした。

夜が明けて、室内の状況が分かってきました。
散乱した食器や本などを片づけようとしても、大きな妨げとなったのが、ホッとする余裕を与えることのない断続的に続く余震です。
本震よりも、この終わりの見えない余震の方が怖くてたまりませんでしたし、余震でまた散らかってしまうのではないかと考えると、片付ける意欲は削がれていきます。

幸運にも、午前8時半頃に停電が一時的に回復しました。
その時に急いでつけたテレビに映し出されていたのは、倒壊した阪神高速の高架やあちこちから上がる火事の炎と黒々とした煙‥。
自宅の被害とは比べ物にならない大惨事が、目と鼻の先で広がっている現実に驚愕したのでした。

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25年が経過しましたが、地震発生直後の記憶は褪せていません。
この後も様々なエピソードが続きますが、今回は最初の3時間ほどの部分だけを切り取って書いてみました。
震源地に近いものの、花崗岩でできた固い地盤の上に住んでいたのが幸いし、激しい揺れにも関わらず被害も大きなものではありませんでした。


さて、この数時間の行動の中に、災害に対する不備がいくつか浮かび上がりますが、わかりますでしょうか。

1. 床に割れた食器などが散乱している中、裸足で歩いたこと。
  ( 足で探りを入れながら進みましたが、よく怪我をしなかったものです。)

2. 懐中電灯は家にあったものの、電池が切れかかっていたこと。

3. 固定電話のメモリーは停電になると使用不能になると知らなかったこと。

4. ラジオの収納場所を知らなかったこと。


当時、携帯電話の普及はほとんど進んでおらず、家具の転倒防止を防ぐグッズも一般的でなかったことなどを差し引いても、様々な問題点がありました。


25年の節目で様々な報道がなされると思いますが、他人事と思わず、今一度災害に対する備えを確認する機会として下さい。